トイレに行こうと一人無断で部屋を出たのは間違いだった。
………今の自分は、立派な迷子なのだから。
うろうろと飛行船の通路を彷徨うこと十数分。
どこも造りは同じような通路で、迷ってしまったのは無理もないことだと自分に言い聞かせる。
帰ったら皆心配しているだろうか?迷子になったと言ったら、きっと叱られるだろうが。
先ほどから、誰か人はいないかと探していたが、その気配はない。
こうなったら一つ一つの部屋を回ったほうがいいだろう。
一番手前のドアを、何度かノックしてから、開けた。
よくよく考えてみれば、こんな分厚い機械のドアではノックの意味は無かったかもしれないが。
「あ」
「…………ああ、城之内君の妹さん?」
最初に入った部屋に、顔見知りがいたのは、ラッキーだったろう。
食事をしていた白髪の青年が、こちらに気づいてにこやかに笑って尋ねた。
直接の面識はあまり無いが、確か、兄たちの同級生だ。
ドアが開いた瞬間、彼の目は死人のように虚ろだった気がしたが、
彼は突然の招かれざる客に怒りもせず、キラキラと瞳を輝かせて招き入れてくれた。
「静香です。あの、お兄ちゃんの部屋がわからなくなっちゃって…」
「僕は獏良了。確かに似たような作りだし、迷うよね。
ちょっと待ってて。電話で聞いてみるから」
勧められるままにソファに座らせられるが、じっとしているのは妙に居心地が悪い。
背後では「だから城之内君の部屋番号教えて……って日本語通じてる?」と、
獏良さんが声音を荒げて電話をしている。
一体誰にかけているのかはわからないが、少し時間がかかりそうだと察した。
意識を電話から机に戻す。
食べかけの食事、デュエル盤、写真に手紙。
写真は、色素の薄い兄妹が砂浜で並んで立っているものだった。
小学生になるかならないか、ぐらいの随分と古い写真だ。
写真と一緒くたにされている手紙も、位置的には労せず読める位置で、
悪いなと思いつつも文面に目が行く。
「いい加減にしろ……」
獏良さんがいきなり恫喝めいた大声を上げ、びくりと肩が揺れる。
すぐさま謝ろうとしたが、振り返ると、彼は電話のコードを睨みつけていた。
どうやら、自分に向けて怒っていたわけではないらしい。
「大体君はいつも…………んのバカ、電話切ったな」
「…あの、だめ、でしたか?」
受話器を軽く叩きつけるように置き、私に苦笑を零す。
彼の言葉を聞いていた限り、すんなりと帰れそうにはない。
「平気さ、ここらへんの事情通がもうすぐ来るから」
「はぁ……」
彼の会話内容を聞く限り、どう考えても誰かが来る雰囲気ではなかったが。
まあ、どうせトーナメントが始まれば合流できるか、という楽天的な考えが浮かぶ。
迷惑じゃなければここにいさせてほしいと尋ねようと思ったが、
既に二人分の温かい紅茶まで用意して隣に座ってきた。
とりあえず大丈夫、らしい。
獏良さんは紅茶に口をつける前に、机の上のものを片付け始めた。
気を使わなくてもいいのだが、片付けない方が、この人には気を使わせそうだ。
手紙と写真に手を伸ばしたところで、ふと、私に視線を向けた。
「………見た?」
「な、にをですか?」
ふぅ、と獏良さんは肩の力を抜くため息を漏らす。
力なく頭を横に振って、私を諭すように、肩をポンと叩いた。
「兄妹そろって、嘘下手だよねぇ」
「…………………すみません」
しばしの静寂が訪れる。私も、おそらく獏良さんも、闊達に喋るタイプではない。
紅茶を飲むしか、することがないので手持ち無沙汰だ。
獏良さんは怒っているわけではないだろうが、
それでも、不躾なことをした自覚はあるので私は余計に気まずい。
なんとか空気を温めようと、負い目はあるものの、妹さんの話題を出した。
「あの、妹さんがいるんですか?」
「うん。二つ離れてる。天音っていうんだ」
「あ、じゃあ私と同い年です!」
そうなんだ、奇遇だね。
現実感の薄い綺麗な微笑みを浮かべ、獏良さんは紅茶を一口飲んだ。
それと一緒に、何か、大切な言葉も飲み下したように見えた。
だけれど、私は、何も察することができなかった。
どんな人なのか気になって、とりとめのない質問を繰り返し、
獏良さんは小さい頃の面白い思い出話を交えつつ、言葉少なに答えてくれた。
「妹さんは、応援にはいらっしゃらな」
「来ないよ」
話題自体を打ち切るような、拒絶するような返答。
鈍い私は、やっと、獏良さんがこの話に触れたくないのだと、わかった。
「ごめ、んなさい」
「あ、いやー、ごめん。僕の言い方がきつかったよね、別に怒ってないよ?」
「ごめんなさい、ごめんなさいっ!」
獏良さんが困ったように頭を掻くのが見えた。
私は、どうしてこんなに駄目なんだろう。
助けられて、気遣われて、困らせてばっかりだ。
獏良さんだけじゃない、お兄ちゃんに、舞さん、御伽さんや本田さんに…
「君を泣かせたら、城之内君に殴られちゃうなぁ…」
最初、何があったのかわからなかった。
ただ、温かくって、びっくりして、それから
抱きしめられたと気づいた。
「えぇぇっ、ちょ、獏良さん!?」
「あ、泣き止んだぁ。よかった、僕、全然怒ってないんだからね?」
「よくわかりましたから、まず、離してください!!」
兄以外の人に、こんな風に抱きしめられたことなんて無くて、
パニックで、顔が真っ赤になる。
獏良さんは、天音もこうやると泣くの治まるんだよー、と相変わらずの調子。
流石にそれは…と抗議しようとしたが、凄まじい勢いでドアが開けられ、誰かが駆け込んできた。
見事に、タイミングを外された。
「獏良ァァァァァァァアアアアアッ!!!!!!」
「よかったねぇ静香ちゃん。案内の人が来たよ」
デュエル盤を装備しつつ奇声を上げる人が、案内だとは思わえないが…
「海馬君、城之内君の妹さんが迷ったから、部屋教えてほしいんだけど」
「ふん、その程度のことなら電話で聞けばよかっただろう」
「妙な勘違いして電話切ったのはどこのどいつだよ」
冷たい声で、海馬さんにツッコミを入れる獏良さん。
言葉は鋭くとも、二人の雰囲気は柔らかくて、くすりと笑える。
笑い声に気づいた海馬さんは、面倒くさそうではあったが、私に尋ねた。
「ふん…凡骨の部屋でいいんだな?」
「すみません、お願いします」
「それじゃあ、また後でね〜」
獏良さんの間伸びた見送りを後に、海馬さんはさっさと歩いていく。
それでも、私がついて来れるよう歩調は合わせてくれていた。
けれど少し歩いて、角を曲がると突然歩みを止めた。
「あまり」
こちらを見下ろす眼が、ちょっと怖いと思った。
それでも、この人があまりにも真剣で、視線が、外せない。
「あいつの妹のことは、口に出すな」
「…はい」
この人は、獏良さんの何かを知っているらしい。
私には、それを知る権利はない。だから、素直に頷き、この会話はそのまま途切れた。
「この通路の右奥が、凡骨の部屋だ」
「わざわざ、ありがとうございました」
「ふん、全くだ」
兄にとって海馬さんは天敵だと誰かが言っていたが、
こうして親切に道案内してもらったと伝えたら、どんな反応をするだろうか。
もう一度、海馬さんに丁寧に頭を下げて、
別れついでに気になっていたことを尋ねた。これぐらいなら、聞いても大丈夫だろう。
「あの、最後に一つ、お聞きしていいですか」
「答えるかは別として、一応聞いてやろう」
「何で私たちが妹さんの話をしてたって、知ってるんですか?」
海馬さんは明後日の方向を向いたっきり、何も答えてはくれなかった。
070101:書き直しました
050411:作成
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