うららかな午後の暖かい日。
地理的な問題ゆえどうしても空気が淀まざるをえないこのロンドンの町並み。
その中では格段に風通しが良く自然に満ちた見晴らし公園で、
ブッチは使い込んだ枝切りバサミで木の剪定をしていた。
伸びた枝葉をあらかた刈り落として一休みしようと公園の椅子に腰掛けると
手入れしたばかりで一段と濃い緑の匂いがむせ返るように香った。
額に滲んだ汗を拭いながらぼんやりと街道を眺めていれば、香りに気づいたのかブッチに気づいたのか、
顔見知りが通るとこちらに軽い会釈をしながら通っていく。
そんな通行人らの中に、顔見知りも顔見知り、クラウスの姿を見つけて、
ブッチは思わず大きな声で呼び止めた。
クラウスが立ち止まる。
彼がこうして昼間の街中に現れるのは珍しい。時計屋に行くのだろうか。
慌てて彼に走り寄るブッチに、苦笑するような顔をつくった。
「ブッチ。あまり目立ちたくないんだ。そう大きな声を出さないでくれ」
「すみません坊ちゃん。これからお出かけですか?」
ほんの少し前まではブッチよりもずっと小さい子どもだったクラウスは、
今では見上げなければならないほど大きく、見違えるような青年になっていた。
それでも、「坊ちゃんはやめてくれと言っているじゃないか」と膨れる彼の表情は、
いくら成長した姿でもブッチのよく知る『坊ちゃん』そのもので、ついつい頬が緩んだ。
「これから上に行くんだ。例の計画で必要になってね。ブッチも来るかい?」
「俺なんかがついて行ってもいいんですか?」
例の計画とは、上のロンドンで高名馳せるレイトン教授をこの地下に招く計画のことであり、
しがない庭師である自分もその協力を頼まれている。
勿論、大切な坊ちゃんへの協力を惜しむ気は無いが、ブッチには、その背景までは聞かされていない。
タイムマシンを作らせるためにここを十年後の世界に設定した街をつくり、
科学者を連れてきていることまでは知ってはいる。けれど、レイトン教授は考古学者だ。
……クラウスが自分達アルバトロ家の使用人をとても大切に思っていると同時に、
何かとても大きな計画を隠していることを、ブッチは僅かながらだが感づいていた。
「ああ。ちょっと教授の弟子を見に行くだけだしね。
顔立ちはどうしようもないが、服の趣味は似せられるだろう?」
クラウス自らこうして細かな下準備を必要とするほど、
かの教授が重要な人物だとはブッチにはどうしても見えなかった。
だからこそ、見極めてみたい。いつのまにか己の心に興味の種が芽吹いていた。
「お供しましょう」
久々に降り立った地上のロンドンは、地下の小春日和とはうって変わった雨模様だった。
雨雲で覆われた町並みは薄暗く、道行く人々も足早に通り過ぎる。
レイトン教授の弟子とやらがどこにいるのかは知らないが、
傘を持っていない自分としては、あまりそう遠くにいないことを祈るばかりだった。
「ブッチ。この店に入ろう」
クラウスはブッチの願いを知ってか知らずか、香ばしいコーヒー豆の匂いが漂う喫茶店にするりと入った。
街の通りがよく見える窓際の席に迷わず座るクラウスに続き、黄ばんだ紙のメニューを取った。
紅茶よりもコーヒーの品数が多いそれを眺めつつ、注文をとりにきたウェイターに
自分でも知っていた銘柄のコーヒーと、サンドイッチを頼んだ。
「僕も同じコーヒーで。あと、ホットケーキを」
こっそり笑うに留めたつもりのはずだったが、クラウスは目ざとく気づき、じと目で睨みつけてきた。
「何か言いたいことがあるなら、言ったらどうだ?」
「いいえ。ただ、坊ちゃんは相変わらずホットケーキがお好きなのだなぁ、と」
「サマリーのホットケーキが美味しすぎたんだ」
睨むのをやめて微笑んだクラウスに、ブッチも笑い返した。どちらかと言えば、それは安堵の笑みだった。
例えどんな隠し事があろうとも、坊ちゃんはあくまで坊ちゃんなのだと安心したいのだ。
だからこそ、こうして何かしらの昔との共通点を求めてしまう己の浅ましさをブッチは重々わかっていた。
「それで、レイトン教授のお弟子さんをどう見つけるおつもりで?」
「ああ、簡単さ。教授はここ最近研究に必要な資料を探しに書店巡りをしているんだ。
今日は水曜日だから講義は二時で終わり。午後がほぼ空くから、弟子の子どもも一緒だよ」
「………………………なるほど」
妙に知りすぎている感があるけれど、そこは、あれだ、坊ちゃんだからだとブッチは無理矢理に自分を納得させた。
地下にあそこまで大きな都市を築くほどの計画力を持っているのだから、
教授一人の予定ぐらいクラウスには造作も無く調べ上げられるだろう。
ウェイターが丁度会話の切れ目を狙ったかのように頼んだコーヒーやパンを持ってきた。
互いにそれぞれの軽食を食べながらも視線はじっと窓に向ける。
雨足は更に強まり、道を歩く者すらまばらになってきた。
「…………来るんですかねぇ」
「来るさ」
それを最後に、二人の会話は途切れた。
食事を黙々と食べながら温かな室内で雨の景色を眺め続ける。
この柔らかな沈黙が「来た」の一言で破られたのは、ブッチが最後のサンドイッチの一切れを口に入れる間際だった。
「レイトン教授たちが、ですか?」
「当たり前だろう。ほら、あれだ」
若干、興奮気味な声音で、クラウスはブッチにもわかるように指を差した。
見ればすぐにわかる。黒い山高帽とコートの男。あちらのロンドンでの悪名が頭に残っていたせいか、
もっと厳しい姿を想像していたが実物は随分と穏やかな顔立ちだ。
その隣で寄り添うようにとことこと歩いているのが、弟子なのだろう。
丸っこい大きな眼や少し癖のある薄茶の髪は、どことなく、坊ちゃんに似ていなくもない。
水色を基調としたキャスケット帽とセーターが印象的で、
そう頭を使うことが得意でないブッチでも、クラウスがこれから水色の上着と帽子を揃えるのだろうと感づいた。
けれど、そこでブッチはやっと気づく。
クラウスが、先ほどから一言も喋っていないことに。
いや、それだけではない。身動きすらせずに彼らをじっと、まるで睨むかのように凝視していた。
「……………………坊ちゃん?」
「……………………………………………」
何か、彼らに変なところでも会っただろうか。
ブッチはもう一度教授とその弟子を観察するように眺めるが、特に変わった様子は無い。
深緑の趣味の良い傘を差して歩くレイトン教授と、その傘からはみ出さないように横にぴたりとくっついて歩く子ども。
仲良さそうに通りを歩いていった二人は、まるで親子のような親密さが見て取れる。
「どうかしましたか?」
彼らが通り過ぎた後も、じっと窓を見つめるクラウス。
身体でも壊したのかとブッチは心配になって彼の顔を覗き込むが、
青年はその整った顔を歪め悔しげに歯軋りしていた。
「ブッチ」
その声音はどこまでも低く、先ほどレイトン教授を見つけたときの声とはがらりと変わっている。
何が彼の心の琴線に触れてしまったのだろう。
ブッチは『はい』と返事をして、次の言葉を待った。
これほどまでに暗く、憎しみを搾り出すようなクラウスは、ブッチの知らない『坊ちゃん』だった。
「地下で雨を降らす装置を、至急作らせよう」
「はい?」
「できればにわか雨がいい。傘が必要なぐらい降り注ぐ雨だ」
「あの………坊ちゃん、何をお考えなんですか?」
戸惑いを隠しきれないブッチの言葉に、クラウスははっとしたように息を呑み、
先ほどまでの鬼気迫る気迫を消していつもの柔和な表情に戻った。
「すまない、ブッチ。ちょっと興奮していたよ」
「そうでしょうね。大丈夫ですか?」
「ああ。早速地下に戻ろう。すぐ装置を作らせないと間に合わない。
それと傘だ! 大人二人が入れるような………いや、むしろ小さい傘を用意しよう!」
駄目だ、全然大丈夫じゃない。
何かのスイッチが入ったかのように熱に浮かされたクラウスを言葉で押し留めつつ、
慣れたように彼を羽交い絞めにした。
レイトン教授を呼び寄せると決まった日からのこの暴走。
ふとした切欠でいきなりこうなるのだが、
サマリー曰く、坊ちゃんの気持ちがある程度わかるらしい。
……………切実に、そのコツを教えて欲しい。
事態の異常さを察したウェイターがこちらにやって来るのを見て、ブッチは一言事情を伝えた。
「すみません。いつもの発作なので気にしないでください」
発作→レイトン教授欠乏症
ブッチ→未来ルークの手紙を教授に手渡しした人。レストランでの繋ぎ役
サマリー→時計屋のおばあちゃん
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