カジノは大人の社交場とはよく言ったものだが、
エルシャール・レイトンは人生の折り返し地点を過ぎたであろうこの37年間において、
ただの一度もその社交場とやらに足を踏み入れたことは無かった。
ギャンブルは自身の拘る英国紳士としての振る舞いに反するものと自制していたし、
何より、誰からもその才能を一目置かれる将来有望な若い教授に
悪い遊びを教えられるほど蛮勇を持った友人知人もいなかった。
勿論、レイトンだって酒場のテーブルでポーカーやブラックジャック程度は嗜んでいる。
クレアとブリッジに大勝し、しばらく参加禁止令が出されたことだってあるぐらいだ。
けれども、それはあくまで身内のささやかな賭け事の範囲であり、
こうもフォーマルで、ましてや会員制のカジノになんて出入りしたことはない。
だからこそ、はしゃぐルークを諌めながらも、
レイトンはそっと周囲を見回してカジノの華やかな空気を静かに味わった。
あのスロットはどのような仕組みで動いているのか。
奥のテーブルでルーレットとダイスを使ったゲームが行われているが、どんなルールなのか。
壁のいたるところに掛けられた抽象画の題材は何なのか。
いくら年を重ねようとも好奇心は衰えず、むしろ湯水のように湧き上がってくる。
「先生、何だか、すごいですね」
「ああ、そうだね」
キラキラと華やかな照明と磨き上げられた美しい大理石の輝きに目を奪われつつ、
ルークも一種独特な熱を持ったカジノの雰囲気にすっかり興味津々だ。
未来のルークと待ち合わせているのだけれど、こうも広い店内では巡りあえるかどうか。
少し店を散策して未来の君を探してみようとレイトンが提案すれば
ルークは大きな丸い目に溢れんばかりの好奇心を湛えて力いっぱいに頷いた。
まずはどこを見て回ろうかとレイトンはつらつらと考えていたところで、
ルークがあっと叫び、歩みを止めた。
「先生、見てください」
大理石の柱の影から青色の帽子を被った青年が熱烈にこちらを見ている。
ルークが彼を指差した。いや、正確には、彼の斜め横に掛けられた薔薇の花を指差した。
「新しいナゾです!」
「そうか。早速挑戦してみよう」
青年の脇を通り過ぎ、二人でナゾに取り掛かる。
レイトンにはそう難しいものではなかったが、
ルークがまだうんうんと悩んでいるので彼が自力で解明するのを待つ。
昔に解明したナゾの応用だ。取っ掛かりに気づけばそう難しくはない。
懐の懐中時計で時間を確認し、レイトンは黙ってルークを見守ろうと決めた。
五分あれば解けるだろう。
必死にメモと花とを見ながら真剣に考え込むルークは見ていてとても微笑ましい。
未来のルークを名乗る者もナゾが好きなのだろうか。
そんなことをふと考えた瞬間、背筋にぞっと寒気が走る。
反射的に、背後を振り向いた。
先ほどの青い帽子の青年がこちらに諸手を挙げて駆け寄ってきて、
レイトンの胸板にどんと突進した。
いきなりの衝撃に驚いたが、青年の勢いを何とか受け止め踏ん張った。
一体どうしたんだ、そう尋ねようと青年が顔を上げるのを待ったが、
レイトンの思惑に外れ、彼は肩口に顔を沈めたきりで、一向に目を合わせようとしない。
ルークも何事かとこちらを見ているが、驚きで口が開いている。
そりゃ、そうだろう。青年はがっちりとレイトンの首の後ろで手を回していて、
傍から見れば、熱い抱擁を交わしているようにしか見えない。
ルークだけではなく近くでたむろしていたマフィアやカジノの客たちの視線が集まるのを感じ、頬が赤くなる。
できるだけ、早く離れてもらいたい。
がっちりとしがみつく青年への言葉を慎重に選び、穏やかな口調で声を掛けた。
「………ええと、君は、一体誰なのかな?」
「初めまして、スーハー、レイトン先生。
いえ、スーハー、お久しぶりですと、スーハー、言ったほうが、スーハー、正しいのかな」
鼻と口をフルに使って匂いを嗅がれている。
熱い呼気が肩口に当たるのと同時にうなじをくすぐる様に指の腹で撫でられ、
レイトンはあまりのおぞましさに言葉もかけず青年を突き飛ばした。
……英国紳士としては少し野蛮な行為だったかもしれないが、誰も彼を責めることはできまい。
青年から距離を取ったレイトンは、幼いルークを背に隠すように後ずさる。
鳥肌が立つような気色悪さが体をぞわぞわと震わせるが、ともかく、
正体不明の変質者の姿をルークに見せたくなかった。
「……ひどいじゃないですか」
突き飛ばされた青年はこのレイトンの行為に傷ついたような表情を見せたが、
すぐに再び両手を広げてじりじりとにじり寄る。
素手の取っ組み合いにもそれなりに自信のあるレイトンだったが、
その若さに不相応なギラギラと底光りする眼を持った青年を前にすると
自分が猟犬の眼下に晒された野兎のような気分になってくる。ともかく、逃げたい。
「先生、久しぶりの再会なんです。ハグを、熱いハグを!!!」
「ちょっと待て、君は一体誰なんだ!?」
「ふふふ、僕はルーゴボハッ」
青年は最後まで言葉を言い切ることなく、前のめりに倒れ伏す。
固い大理石に顔から突っ込んだため、非常に痛々しい脆く硬質な音が耳に届いた。
背後から、マフィアの一人に頭を殴られたのだ。
暴力を毛嫌いするレイトンも、この時ばかりは彼の行為にこっそりと感謝した。
しかし、殴った男の顔は疲労感が濃く表れていたし、
倒れた青年を見る眼差しも困った客を見下すソレではなかった。
てっきり店内の治安のために止めに入ったと思ったのだが、そうではないらしい。
がっしりとした体躯のマフィアは殴って昏倒させた青年を丁寧に担ぎ上げ、
レイトンに軽くだが、頭を下げた。
「すまん。リテイクで頼む」
「……………そこの彼の、知り合いなのかな?」
「ちいっとばかしボスも緊張してたんだ。次は上手くやるから、見逃してくれや」
「……………………」
大きな極秘情報を残して去っていくマフィアと青年を見送りながら、
レイトンは心の底から彼らに関わりたくないと、切実に願った。
レイトン教授欠乏症なクラウスと、そんな彼にドン引きな教授
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